思えば楽し苦し

平成23年2月3日

 思えば人生楽しくもあり、困難な状況も多々あり、どちらかというと日々ややこしい問題だらけです。捉え方・感じ方・考え方で楽しくなる訳でもありません。

 やはり辛いことは辛い、でもそれを乗り越えていかねばならない。さらに人の助けがないと世の中渡っていけませんが、さりとて最終的には自分のことは自分で対処しなければ誰も処理してくれません。もちつ・もたれつが原則ですが、最後の自分の努力が最も肝要なことでして、決断して行動するのは自分です。受験もそうですし、結婚も開業も自分の決断と責任で取った行動です。もうちょっと努力していたら、こうはならなかったこともたくさんありますね。でも反省しても仕方がない現実があります。大切なことは、年と関係なく、いつもみずみずしい冒険心あふれる日々を送ることです。稚拙であっても良い、何かにチャレンジしようとする自分がいると少し心が豊かになります。

 幼いころより失敗の連続なのですから、今更失敗を恐れることは不要でしょう。人生は錯覚と誤解の連続だと思っています。経験豊かになると、そういうことは避けて無難に生きようとする自分がいます。でも、やはりそれも錯覚と誤解であり、死ぬまで間違いばかりする面白いのが人間でしょう。明日の日は違う意見を書く自分であっても一向に構わないと思いますが、最低限のルールと責任は守って明日を夢見たいと思っています。

 何が最も大切か、消去法で突き詰めると、自分自身が残る訳ですが、そこには人との交わりがなければ自分自身も無いことに気付きます。多くの方々との御縁が自分を高めます。執着心は人として最も慎むべきことですが、高い志を持って様々な方々との御縁を大切にする生き方、豊かな心を大切に出来る人生を皆様方と共に歩んで参りたいと思います。


人との接触

平成22年9月6日

 総じて文化的な老舗というものが否定的に捉えられるようになった。新しいものには飛びつくが、伝統とか文化を大切に思う人々の町の醸成は無くなったと思ってもよい。老舗旅館や老舗料亭は細々と継承されているが、大多数の街の商店、工場で老舗は消えたか形を変えた。ブランドがもてはやされる時代ではあっても、伝統と人の輪が消えて行こうとしている。拝金主義が横行し、文化伝統が軽んじられる社会に未来はないだろう。

 これからの歯医者は気楽さ「お気〜軽に〜!」と若いドクターは言う。回りを見渡しても、コンビニ・スターバックス・回転寿司・etc・・・・。対面で口を利かなくとも、あるいは黙ってでもメニューを示し頷けばコーヒーは出てくる。この気楽さ・人間関係の希薄さこそコンビニ・自販機に象徴される対人行動の表れだろう。さらに営業時間が長いこと。知り合いは窮屈という感覚の方が上回る。

 権威主義は駄目。現代は、昔で言う「権力・名誉・金力」という3要素への憧れは変わった。昔権力を持つ役人は貧乏だった・名誉を重んじる学校の先生は今や多くのお母さんがたの高学歴化により失墜・金力だけが求められている。現代の役人は金持ち、庶民も一攫千金を狙い気楽にパチンコ三昧の時代。一方では震災後神戸は落ち着いたが、人間関係が希薄となり、随分困ってる人が増えている。神戸で100年以上続く老舗は数えるほどしかない。

 大企業も東京に本社を移し、工場移転、まさに産業の空洞化が起こっている。先端医療を目指す神戸だが、ソフト面重視の今の先端医療は需要を生まない。税収が増えても県民市民の活性化に繋がらない。やはり産業がないと町は活性化しないのだ。そういう意味では「医療完結型の街」創りに期待したい。

 病院・福祉施設を始め様々な医療福祉型門前町を新たに創出出来ないか。そこに商店が出来、サービス業・学校・住宅が付属し、小さくとも完結した生活が可能な街づくりが良い。経済活性という意味では爆発的成長はないだろうが、着実に人々は生きていることを実感出来る町になる。人との接触型の有機的な町作りが求められる。


同心円構造

平成22年8月23日

 同心円という状況を日本人は好むようだ。東京一極集中が指摘されて久しいが、地方衰退を座して待っている訳ではない。首都東京を中心として同心円的に地方都市を描くと、まあそうなのかな〜と思ってしまう。中央集権ではなく地方主体で物事を決めて行こうという考え方が求められてはいる。しかし、国という体裁は堅持しながら、地方独立を進めようという道州制が本当に実現するのかというと、中々難しい感じがする。

 江戸時代、幕府の絶対的中央集権国家であった日本であるが、各藩は独立国のように藩札を発行し、その藩の民はその藩の責任において統治されていた。諸法度による幕府統制や参勤交代による藩の管理が上手く調和し、日本国としての平和が続いた。各藩での同心円的構造と幕府と言う日本的同心円が重なり合い、絶妙の立体的同心円が築かれた。現代社会にあって、国と地方が同心円的構造を目指してもバラバラになる可能性が強い。交通網による繋がりは均一だが、地方特性だけに頼ると弱肉強食原理で同心円は崩れ去る。

 職業構造や経済構造においては同心円という着想は無いだろう。ピラミッド構造が最も安定したものとされるが、平等かつ個人主義が一般的になりつつある日本ではピラミッド構造は拒否される。自由な行き来を保証し、個人保護という世界に冠たる民主国家日本ではあるが、霞が関への期待感が強すぎの感も否めない。安定的調和を愛する国民性にあって、医療構造の在り方が問われる時代となっている。


四苦八苦

平成22年8月9日

 仏教用語で四苦八苦は、生老病死を四苦という。さらに、愛するものとの離別の苦しみ・怨み憎むものとの出会う苦しみ・求めても得られない苦しみ・あらゆる精神的苦しみ、これら4つを加え、四苦八苦。

 生まれて来たことも苦の始まり、老いて病に伏す、そして死への恐怖が四苦だが、この苦しみは中々深いものだ。

 残りの4つの苦しみは、人それぞれ若干異なるのかもしれない。愛する者と別れる時が必ず来る、これも分かっていても考えないようにしていることが多い。憎むものとの出会いとは、好きでもない人に追いかけられる苦しみだろう。求めても得られないものとは、お金や財産のことであり、あらゆる精神的苦しみには財産が減ったらどうしようとかの悩みも含まれているのだろう。

 四苦八苦は一言では「悩み」とも言える。悩みに対して、私は解決可能な悩みには大いに悩むべきと思っている。悩んだ末に解決出来ればそれは結構なことだ。

 ところが、世の中往々にして悩んでも解決しないことを延々と悩み続けることが多い。それこそが釈迦のいう「四苦八苦」なのだろう。

 だから、私は四苦八苦しないことにしている。

 友は、生きている間に解決出来ないことは無いと諭してくれた。そうだろうと思う。解決とは、良い結果だけを求めてはならないという意味も込められている。どのような形であれ、解決はする。借金で苦しんでも、あの世まで持って行くことは出来ないことになっているし、有り余るお金があったとしても、あの世まで持って行くことは出来ない。

 明治の文豪の小説の中にも借金のことが頻繁に出てくるが、その後どうなったかは書いてない。何とかなったのだろう。国でも貧乏のどん底の国があり藩があったようだが、長いスパンでは何とかなっている。

 最近でもリーマンショック以降世界は苦しんでいるが、いずれ何とかなるのだろうと楽観視して見ている。隣国の韓国も随分と苦い経済不況の経験があったが最近はG20に加盟し、世界の金融の一翼を担っている。

 北澤宏一氏著「科学技術は日本を救うのか」(株)ディスカバー・トゥエンティワン2010年4月15日第一刷145頁に「誰かが貯めたお金は、誰かが借りる。借りた誰かはそのお金を必ず使ってしまう。すなわち、社会全体としては後世に貯蓄を残すこともできないし、逆に後世に借金も残すことができない」と記述されている。

 お金の苦しみばかり綴ってしまったが、とにかく何とかなる。受け入れて対応すれば何事も何とかなる。恋人に振られても幸せな結婚生活をしている人は山ほどいる。要はその人の気持ち次第。禍福は糾える縄のごとしとは良く言ったものだ。


輪廻転生・栄枯盛衰

平成22年7月20日

 初夏をとばして一気に梅雨入り。今、日本の天候にはあまり情緒は感じられない。そんな休日、哲学者の気分になり、人生や命のはかなさについて考えた。

 人の人生や、歴史の流れの中では、新生・発展・劣化・継承が繰りかえされている。人間は、誕生・成長・そして老いて彼の岸へ行く。そのような流れを 200万年繰りかえしている。企業も起業し発展期を迎えやがて衰退を迎える。国を考えても同様である。人は信じて疑うことなく命をつなぎ、未来の繁栄を信じて逝く。人の命に限りあることは分かっているが、国や企業・職種は永遠であるように勘違いをする。現実には、国や企業・職種も永遠ではない。頭では理解できるが、心の中ではそう思いたくないと抗う気持ちが強い。地球も永遠の存在ではないし、宇宙では星の誕生と消滅が繰り返されており、やがて宇宙が無になると研究者はいう。

 研究者は新しい分野を見つけ研究をはじめる。黎明期には研究は進展し、新しい学会が発足し研究が進んでいく。学会役員は学会が未来永劫続くと考えるが、やがてその学問体系が壊れ、学会組織も雲散霧消する時が来る。そして、新たな学問が芽生え発展していくであろうが、すなわちほかの学問に取って代わられる。このような栄枯盛衰、輪廻転生を繰返しながら人も組織も国も家も生きている。

 何事も、今勢いがあるからといって永遠に勢いがあるとはいえない。そのことを踏まえ、勢いがあるときに、そろりと勢いを保っていくのか、後継を悲しませぬようにあえてソフトランディングを目指すのか、そのように考えて行動することが正しいと私は思う。

 国の場合も勢いがまだ残っている間に力をため、100年スパンを考えた次への飛躍に備えての充電期間が大切である。現在、経済や工業生産力の面で日本は一流国として評価されているが、今後は高付加価値技術立国・高福祉国家を目指すべきだろう。現在アジア各国の台頭が如実になり、彼らはやがて一流国となるであろうが、将来衰退していくときをむかえ、再び日本に順番が回ってくるように思う。それにはどれぐらいの期間がかかるかは分からないが、近視眼的に今の日本は現在の一流というたち位置を維持するためにあらゆる手を打とうとしているのが、現状である。

 気をつけなければならないことは、人も国家も勢いがあるときには衰退など考えられないという悲しい現実があることである。栄枯盛衰を肝に銘じ、そのときの勢いに惑わされることなく、興隆と衰退の繰り返しが歴史の常であることを忘れずに、長期的な視野での熟慮が重要であると思う。


“ Where there's will,there's a way.”

( 意志のあるところには、道がおのずから開けてくる。)

平成22年7月5日

 基礎学力、教養、文化を兼ね備えた所謂知識人であっても、そこに見識がなければ、本当の意味での教養ある文化人とは言わない。

 世の中、特に歯科医師会に今求められているのは、この知識人であり、加えて柔軟で多面的思考が出来、独創力を発揮可能な真の指導者である。

 他と協調・妥協もある程度出来なければならないし、何よりも抜きん出た行動力・決断力・勇気・不断の努力が求められる。

 そして、それらをまっとうしても尚、時の運というものも忘れてはならない。
運に関しては誰も予想不能であり、この点はそれこそ運を天に任すしかない。

 加えて、組織においての行動は「強引とgoing my way」を慎み、調和を持って臨
むことが肝要である。

 皆さんに男泣きをした臼淵大尉が大和ガンルームで残した言葉を引用しておこう。

進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ
負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ
私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、
本当ノ進歩ヲ忘レテイタ
敗レテ目覚メル、
ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ
今目覚メズシテイツ救ワレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ
日本ノ新生ニサキガケテ散ル
マサニ本望ジャナイカ


人生・智慧・連携という絆そして群れる

平成22年6月21日

 高等な智慧を持つ人間は、連携という絆がなければ生きる意味を見出せなくなる。即ち、群れる動物である。動物の中には、単独行動しかしないものもいる。彼らは、群れることなく、昼夜一人ぼっち。でも、繁殖行動の際にはメスを求めて徘徊し、オスと戦い生殖を行う。そしてまた、一人ぼっちになる。決して群れることがなくとも、雌雄が交わる一瞬がある。生存の掟かもしれないが、やはりこれも連携の一種だ。

 デビットジャンセン主演の「逃亡者」という連続テレビがあった。濡れ衣をかけられ、一人転々と逃げ回る。実に孤独な主人公である。しかし、彼の心底には絆を求め群れることを渇望する心があり、そこに逃亡人生の目的と目標が定められていたのである。智慧深い者ほど、絆を大切にする。そして、群れることを上手く活用しながら生きている。殺人犯が15年の時効成立を目的に逃げ回る場合、最も困難なことは、孤独との戦いだろう。結局、逃亡生活中に新しい絆を築いていることが多い。過去の絆を断ち切らなければならないとき、人はやはり新しい絆を作り、はじめて新しい行動をしているような錯覚に陥いりその後も生きていけるのだろう。もし智慧深い殺人者なら簡単に新しい絆を作れずに結局時効まで逃げおおせないだろう。それほど人の絆は生きるために重要な要素を含んでいる。

 人に無視され、自分の存在が確認出来なければ、これは死に等しい。単に「嫌われる」ことは、その質が異なる。「嫌われる」ということは存在を認めたうえでの感情であり存在そのものを否定しているわけではない。仲たがいも、離婚も、全てがこの絆の成れの果てであり、そこから人は新たな絆を求めて行動する。新しい女が出来たから離婚をする。そういうことである。突発的に孤独な生活に入ることなど、どだい無理である。智慧がなければ別である。認知症の老人は、病院や施設に収容されても人の繋がりを口にしない。何の文句も言わずひたすらベッドに寝転び、周りの介護者に家に帰りたいと駄々をこねたりはしない。人はその智慧を失った状態を見て寂しく感じるのである。

 横井、小野田さんはジャングルで30年余孤独に耐えたといわれる。ところが、捕捉される寸前まで戦友と共に行動していた。この事実が大きく報道されない。彼らは、戦友との絆であそこまで長期間逃亡出来たのであろう。先日、「キャスタウエイ」という無人島に漂流した主人公の映画を見た。そこで主人公はサッカーボールに顔を書き、名前をつけ、たえず語りかけるのである。島から脱出した海で、最愛のサッカーボール君は流されてしまう。その時、主人公は、「ウイルソン〜!ウイルソン〜!ごめんよ、許して〜! ウイルソ〜〜ン!」と絶叫するのである。

 人は全くの孤独では生きていけない。語りかける、その人がいなければ生きては行けぬ。つまらないことの連続で良い。もたれ合い群れ、絆との利害関係で生きるものである。智慧がある間は、人様に迷惑をかけながら生きることに意味を見出そう。


人間時間

平成22年6月14日

 私達が共有している時間は同じであり、宇宙の全てが同時の時空の中で過ごしている。時間に関しては人々は平等で、時間を大切にしましょうと子供の頃から言われ続けてきた。その通りであり、時の経過の前に人間は無力であるように感じてしまう。

 ここでものの見方を少し変えてみよう。人間は概ね80歳超の人生であり、最近では 100歳を越える人も珍しくなくなった。様々な科学の進展で、寿命は延伸するのかもしれないが、それでも普通人間の生と死の期間は100年未満だろう。胎生期10ヶ月を経て出産し、人生が始まり苦難と幸せが入り混じった時を皆が歩む。犬は2ヶ月の胎生期を経て、屋内犬では概ね15年ほどの人生。胎生期が人間の1/5なのだから、寿命も同じ傾向なのだろうか。家庭犬は子犬から終焉まで飼い主が見守ってくれる。人間は親から子供へ継承し、人生全てを見守ってくれる人はいない。全ての生き物がこの継承により、歴史を刻んでいる。

 人間としての時間は、現存する長老の話を聞き、先人の声を歴史から学ぶことは出来るが、とにかく一人の人の人生はその人だけが見つめている。人間時間という感覚の表現は難しいが、人間には人間の時間経過の感性があるように思う。他の生き物の人生時間とは違うのだから、人間独特の人間時間という概念と共に生きていることになる。宇宙に目を馳せると、壮大なスケールの宇宙時間がある。とてつもない時空間だから、凡人にはよく理解出来ない。宇宙も人間も同じ時間を共有しているのではあるが、自ずと確認可能な時間帯での判断に限られがちと思われる。人が比較をする時は必ず自分の考えの中で比較をしている。寿命の短い雀に成り代わって考えをまとめたりはしない。かといって、何百光年を経て届いた星の光の時間を考え比較などもしない。つまり、あるがままの今を過ごしている。

 私は、この人間時間というものが、過ちを繰り返す原因でもあり、新しい発見や幸せに繋がっているのではないかと思っている。歴史を学び、過去の文献を紐解き、今何が足りないのか、どうすれば良いのか学習に基づき研鑽に励むのが私達の習性である。どういう継承が行われるのかは、これからの人が取捨選択して行動し生きていく。そう考えると、これから人類は進歩していくのかどうかも判らないし、進歩という状態が何を示しているのかもあやふやである。今生きている私たちが共有している時間の中での葛藤があり、その中で進んでいかなければならないという本能を漠然と感じているのかもしれない。

 人間時間という概念で考えると、私達が目指す科学という蓋然性も見えてくる。それは限られた時間の中で、またその中での旬と言う年代があり、若い医局員の学び方が人生を決めることに繋がる。連続性という意味では、遺伝子における連続性によって現在の自分が存在するが、知識の連続性は残念ながら存在しない。そこにあるのは学ぶことによって連続性を維持し、何かを求め続ける自分と社会がある。人間時間ということを通して、私の若い方々への期待感は自ずと膨らみ続ける今日この頃である。


朝令暮改

平成22年6月7日

 「朝令暮改」とは、「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。」と、国語辞典に記載されている。この言葉の故事来歴を調べてみた。項羽と劉邦の時代に遡る。劉邦が勝ち、時代は漢となる。文帝・景帝の代となり、文帝の信任厚き家令官に晃錯(ちょうそ)という博識の官吏がいた。文帝・景帝の統治を助け、様々な政策を打ち出した。晁錯は商業よりも農業を重視する重農主義者だった。当時、役人や商人の農民に対する搾取が激しかったため、多くの農民が生活に困窮し破産して逃亡する羽目に陥った。晁錯はそれを放置しておいては国が傾くと考え、文帝に献策をした。農民に対しては恣意的に法令を出すべきではないとした晁錯が、諸侯に対しては次々と報土を削るという法令を性急に出し中央集権化促進を図ろうとした。結果諸侯の怨みを買い、呉楚七国の乱が勃発し、景帝により斬首刑となった。言葉には深い意味がある。

 一方で、『君子は豹変する』という諺もある。人格者は、過ちを改めてから善に移る、その移り方が極めてはっきりしている。君子は過ちを直ちに改める。君子は時代に応じて自己を変革する。周代の中国五経の一つ。文王や周公らの著かといわれるが疑わしいと言われている。とにかくこの言葉も古代から伝わっている格言である。(注:一般的には「悪いほうに変わる」という意味で使われるが、本来はよいほうに変わるの意)

 医療の基本は人間関係における惻隠の情である。仁を中心に置き、朝令暮改を慎み、君子豹変する執行役員でありたいと思う。


歯科医師自信喪失時代

平成22年5月23日

 最近の若い歯科医師の心情を聴く機会があった。正式なアンケート調査ではないが、卒後5〜7年の若手歯科医師10名ほどに尋ねてみた。「歯科医師となって良かったか?」の問いに、「全くそうとは思われない」。「生まれ変わっても歯科医師になりたいか?」「絶対に嫌!」二つの簡単な問いに絶対否定の答えが返ってきた。

 さらに中堅の歯科医師に同じようなことを聴いてみた。「大好きな職業だったが次第に嫌気がさしてきた」、「経済的に不安要素が多くなり予測もしていない状況となってきた」、「近隣に開業医が増え、患者数が減少し困っている」。

 ベテランの先生方の返答では、「体力気力の衰えはある程度予測していたが、歯科医療環境が悪くなり加えて近隣開業医増加による患者数減少に困惑している」「技術と経験による高いレベルの歯科医療提供に自信があったが、評価をされなくなったのか極めて不安であるし、それほど自分は患者に信頼されていなかったのだろうか」。こういう答えから想像できることは、自分の存在感低下と自信喪失がベテランの先生方の気持ちを覆っているようだ。

 このような歯科医師の心情は極めて憂慮すべき状況と思われる。自信を取り戻す仕掛け・妙案は見当たらないが、このような事実は国民歯科医療に影を落とすことは間違いない。

 さてどうしたものか・・・!?