輪廻転生・栄枯盛衰
平成22年7月20日
初夏をとばして一気に梅雨入り。今、日本の天候にはあまり情緒は感じられない。そんな休日、哲学者の気分になり、人生や命のはかなさについて考えた。
人の人生や、歴史の流れの中では、新生・発展・劣化・継承が繰りかえされている。人間は、誕生・成長・そして老いて彼の岸へ行く。そのような流れを 200万年繰りかえしている。企業も起業し発展期を迎えやがて衰退を迎える。国を考えても同様である。人は信じて疑うことなく命をつなぎ、未来の繁栄を信じて逝く。人の命に限りあることは分かっているが、国や企業・職種は永遠であるように勘違いをする。現実には、国や企業・職種も永遠ではない。頭では理解できるが、心の中ではそう思いたくないと抗う気持ちが強い。地球も永遠の存在ではないし、宇宙では星の誕生と消滅が繰り返されており、やがて宇宙が無になると研究者はいう。
研究者は新しい分野を見つけ研究をはじめる。黎明期には研究は進展し、新しい学会が発足し研究が進んでいく。学会役員は学会が未来永劫続くと考えるが、やがてその学問体系が壊れ、学会組織も雲散霧消する時が来る。そして、新たな学問が芽生え発展していくであろうが、すなわちほかの学問に取って代わられる。このような栄枯盛衰、輪廻転生を繰返しながら人も組織も国も家も生きている。
何事も、今勢いがあるからといって永遠に勢いがあるとはいえない。そのことを踏まえ、勢いがあるときに、そろりと勢いを保っていくのか、後継を悲しませぬようにあえてソフトランディングを目指すのか、そのように考えて行動することが正しいと私は思う。
国の場合も勢いがまだ残っている間に力をため、100年スパンを考えた次への飛躍に備えての充電期間が大切である。現在、経済や工業生産力の面で日本は一流国として評価されているが、今後は高付加価値技術立国・高福祉国家を目指すべきだろう。現在アジア各国の台頭が如実になり、彼らはやがて一流国となるであろうが、将来衰退していくときをむかえ、再び日本に順番が回ってくるように思う。それにはどれぐらいの期間がかかるかは分からないが、近視眼的に今の日本は現在の一流というたち位置を維持するためにあらゆる手を打とうとしているのが、現状である。
気をつけなければならないことは、人も国家も勢いがあるときには衰退など考えられないという悲しい現実があることである。栄枯盛衰を肝に銘じ、そのときの勢いに惑わされることなく、興隆と衰退の繰り返しが歴史の常であることを忘れずに、長期的な視野での熟慮が重要であると思う。
“
Where there's will,there's a way.”
(
意志のあるところには、道がおのずから開けてくる。) |
平成22年7月5日
基礎学力、教養、文化を兼ね備えた所謂知識人であっても、そこに見識がなければ、本当の意味での教養ある文化人とは言わない。
世の中、特に歯科医師会に今求められているのは、この知識人であり、加えて柔軟で多面的思考が出来、独創力を発揮可能な真の指導者である。
他と協調・妥協もある程度出来なければならないし、何よりも抜きん出た行動力・決断力・勇気・不断の努力が求められる。
そして、それらをまっとうしても尚、時の運というものも忘れてはならない。
運に関しては誰も予想不能であり、この点はそれこそ運を天に任すしかない。
加えて、組織においての行動は「強引とgoing
my way」を慎み、調和を持って臨
むことが肝要である。
皆さんに男泣きをした臼淵大尉が大和ガンルームで残した言葉を引用しておこう。
進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ
負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ
私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、
本当ノ進歩ヲ忘レテイタ
敗レテ目覚メル、
ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ
今目覚メズシテイツ救ワレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ
日本ノ新生ニサキガケテ散ル
マサニ本望ジャナイカ |
人生・智慧・連携という絆そして群れる
平成22年6月21日
高等な智慧を持つ人間は、連携という絆がなければ生きる意味を見出せなくなる。即ち、群れる動物である。動物の中には、単独行動しかしないものもいる。彼らは、群れることなく、昼夜一人ぼっち。でも、繁殖行動の際にはメスを求めて徘徊し、オスと戦い生殖を行う。そしてまた、一人ぼっちになる。決して群れることがなくとも、雌雄が交わる一瞬がある。生存の掟かもしれないが、やはりこれも連携の一種だ。
デビットジャンセン主演の「逃亡者」という連続テレビがあった。濡れ衣をかけられ、一人転々と逃げ回る。実に孤独な主人公である。しかし、彼の心底には絆を求め群れることを渇望する心があり、そこに逃亡人生の目的と目標が定められていたのである。智慧深い者ほど、絆を大切にする。そして、群れることを上手く活用しながら生きている。殺人犯が15年の時効成立を目的に逃げ回る場合、最も困難なことは、孤独との戦いだろう。結局、逃亡生活中に新しい絆を築いていることが多い。過去の絆を断ち切らなければならないとき、人はやはり新しい絆を作り、はじめて新しい行動をしているような錯覚に陥いりその後も生きていけるのだろう。もし智慧深い殺人者なら簡単に新しい絆を作れずに結局時効まで逃げおおせないだろう。それほど人の絆は生きるために重要な要素を含んでいる。
人に無視され、自分の存在が確認出来なければ、これは死に等しい。単に「嫌われる」ことは、その質が異なる。「嫌われる」ということは存在を認めたうえでの感情であり存在そのものを否定しているわけではない。仲たがいも、離婚も、全てがこの絆の成れの果てであり、そこから人は新たな絆を求めて行動する。新しい女が出来たから離婚をする。そういうことである。突発的に孤独な生活に入ることなど、どだい無理である。智慧がなければ別である。認知症の老人は、病院や施設に収容されても人の繋がりを口にしない。何の文句も言わずひたすらベッドに寝転び、周りの介護者に家に帰りたいと駄々をこねたりはしない。人はその智慧を失った状態を見て寂しく感じるのである。
横井、小野田さんはジャングルで30年余孤独に耐えたといわれる。ところが、捕捉される寸前まで戦友と共に行動していた。この事実が大きく報道されない。彼らは、戦友との絆であそこまで長期間逃亡出来たのであろう。先日、「キャスタウエイ」という無人島に漂流した主人公の映画を見た。そこで主人公はサッカーボールに顔を書き、名前をつけ、たえず語りかけるのである。島から脱出した海で、最愛のサッカーボール君は流されてしまう。その時、主人公は、「ウイルソン〜!ウイルソン〜!ごめんよ、許して〜! ウイルソ〜〜ン!」と絶叫するのである。
人は全くの孤独では生きていけない。語りかける、その人がいなければ生きては行けぬ。つまらないことの連続で良い。もたれ合い群れ、絆との利害関係で生きるものである。智慧がある間は、人様に迷惑をかけながら生きることに意味を見出そう。
人間時間
平成22年6月14日
私達が共有している時間は同じであり、宇宙の全てが同時の時空の中で過ごしている。時間に関しては人々は平等で、時間を大切にしましょうと子供の頃から言われ続けてきた。その通りであり、時の経過の前に人間は無力であるように感じてしまう。
ここでものの見方を少し変えてみよう。人間は概ね80歳超の人生であり、最近では
100歳を越える人も珍しくなくなった。様々な科学の進展で、寿命は延伸するのかもしれないが、それでも普通人間の生と死の期間は100年未満だろう。胎生期10ヶ月を経て出産し、人生が始まり苦難と幸せが入り混じった時を皆が歩む。犬は2ヶ月の胎生期を経て、屋内犬では概ね15年ほどの人生。胎生期が人間の1/5なのだから、寿命も同じ傾向なのだろうか。家庭犬は子犬から終焉まで飼い主が見守ってくれる。人間は親から子供へ継承し、人生全てを見守ってくれる人はいない。全ての生き物がこの継承により、歴史を刻んでいる。
人間としての時間は、現存する長老の話を聞き、先人の声を歴史から学ぶことは出来るが、とにかく一人の人の人生はその人だけが見つめている。人間時間という感覚の表現は難しいが、人間には人間の時間経過の感性があるように思う。他の生き物の人生時間とは違うのだから、人間独特の人間時間という概念と共に生きていることになる。宇宙に目を馳せると、壮大なスケールの宇宙時間がある。とてつもない時空間だから、凡人にはよく理解出来ない。宇宙も人間も同じ時間を共有しているのではあるが、自ずと確認可能な時間帯での判断に限られがちと思われる。人が比較をする時は必ず自分の考えの中で比較をしている。寿命の短い雀に成り代わって考えをまとめたりはしない。かといって、何百光年を経て届いた星の光の時間を考え比較などもしない。つまり、あるがままの今を過ごしている。
私は、この人間時間というものが、過ちを繰り返す原因でもあり、新しい発見や幸せに繋がっているのではないかと思っている。歴史を学び、過去の文献を紐解き、今何が足りないのか、どうすれば良いのか学習に基づき研鑽に励むのが私達の習性である。どういう継承が行われるのかは、これからの人が取捨選択して行動し生きていく。そう考えると、これから人類は進歩していくのかどうかも判らないし、進歩という状態が何を示しているのかもあやふやである。今生きている私たちが共有している時間の中での葛藤があり、その中で進んでいかなければならないという本能を漠然と感じているのかもしれない。
人間時間という概念で考えると、私達が目指す科学という蓋然性も見えてくる。それは限られた時間の中で、またその中での旬と言う年代があり、若い医局員の学び方が人生を決めることに繋がる。連続性という意味では、遺伝子における連続性によって現在の自分が存在するが、知識の連続性は残念ながら存在しない。そこにあるのは学ぶことによって連続性を維持し、何かを求め続ける自分と社会がある。人間時間ということを通して、私の若い方々への期待感は自ずと膨らみ続ける今日この頃である。
朝令暮改
平成22年6月7日
「朝令暮改」とは、「朝に政令を下して夕方それを改めかえること。命令や方針がたえず改められてあてにならないこと。」と、国語辞典に記載されている。この言葉の故事来歴を調べてみた。項羽と劉邦の時代に遡る。劉邦が勝ち、時代は漢となる。文帝・景帝の代となり、文帝の信任厚き家令官に晃錯(ちょうそ)という博識の官吏がいた。文帝・景帝の統治を助け、様々な政策を打ち出した。晁錯は商業よりも農業を重視する重農主義者だった。当時、役人や商人の農民に対する搾取が激しかったため、多くの農民が生活に困窮し破産して逃亡する羽目に陥った。晁錯はそれを放置しておいては国が傾くと考え、文帝に献策をした。農民に対しては恣意的に法令を出すべきではないとした晁錯が、諸侯に対しては次々と報土を削るという法令を性急に出し中央集権化促進を図ろうとした。結果諸侯の怨みを買い、呉楚七国の乱が勃発し、景帝により斬首刑となった。言葉には深い意味がある。
一方で、『君子は豹変する』という諺もある。人格者は、過ちを改めてから善に移る、その移り方が極めてはっきりしている。君子は過ちを直ちに改める。君子は時代に応じて自己を変革する。周代の中国五経の一つ。文王や周公らの著かといわれるが疑わしいと言われている。とにかくこの言葉も古代から伝わっている格言である。(注:一般的には「悪いほうに変わる」という意味で使われるが、本来はよいほうに変わるの意)
医療の基本は人間関係における惻隠の情である。仁を中心に置き、朝令暮改を慎み、君子豹変する執行役員でありたいと思う。
歯科医師自信喪失時代
平成22年5月23日
最近の若い歯科医師の心情を聴く機会があった。正式なアンケート調査ではないが、卒後5〜7年の若手歯科医師10名ほどに尋ねてみた。「歯科医師となって良かったか?」の問いに、「全くそうとは思われない」。「生まれ変わっても歯科医師になりたいか?」「絶対に嫌!」二つの簡単な問いに絶対否定の答えが返ってきた。
さらに中堅の歯科医師に同じようなことを聴いてみた。「大好きな職業だったが次第に嫌気がさしてきた」、「経済的に不安要素が多くなり予測もしていない状況となってきた」、「近隣に開業医が増え、患者数が減少し困っている」。
ベテランの先生方の返答では、「体力気力の衰えはある程度予測していたが、歯科医療環境が悪くなり加えて近隣開業医増加による患者数減少に困惑している」「技術と経験による高いレベルの歯科医療提供に自信があったが、評価をされなくなったのか極めて不安であるし、それほど自分は患者に信頼されていなかったのだろうか」。こういう答えから想像できることは、自分の存在感低下と自信喪失がベテランの先生方の気持ちを覆っているようだ。
このような歯科医師の心情は極めて憂慮すべき状況と思われる。自信を取り戻す仕掛け・妙案は見当たらないが、このような事実は国民歯科医療に影を落とすことは間違いない。
さてどうしたものか・・・!? |